2023-02-19 Sun
メンフィスのヴェテラン・ソウル・シンガー、スペンサー・ウィギンズ(Spencer Wiggins)が2月13日に亡くなってしまいました。81歳でした。弟でソウル・シンガーのパーシー・ウィギンズが発表しています。死因は明らかにされていませんが、近年は認知症に加え臓器不全など健康上の問題を抱え、メンフィス市内の病院に入院していました。
スペンサーは1960年代にゴールドワックス・レーベルから名作シングルの数々をリリース。そのディープで迫力のある歌いっぷりで、多くのファンを魅了しました。2017年4月にはパーシーと共に来日も果たし、ビルボードライブ東京で公演を行なっています。
スペンサー・ウィギンズは1942年1月8日、メンフィス生まれ。母親は地元のバプテスト教会のクワイヤーで歌う歌手で、スペンサーも同じ道を進むようになりました。高校在学時に彼はパーシーや姉のマクシン・ウィギンズとニュー・ライヴァル・ゴスペル・シンガーズを結成し活動。そして高校を卒業したのちの1961年にはメンフィスのクラブ・シーンでソウルを歌うようになりました。
ソウル歌手として活動するようになって数年が経った頃、スペンサーのパフォーマンスを目にして声をかけた人がいました。彼の名前はクイントン・クランチ。1964年にゴールドワックス・レコードを設立したレコード・プロデューサーです。彼はスペンサーの才能を認め、ゴールドワックスに迎え入れたのでした。
1965年、ゴールドワックス傘下のバンドスタンドUSAから"Lover's Crime”でシングル・デビュー。飛び切りソウルフルなブルースで圧巻の歌声を聴かせています。その後1969年にゴールドワックスが閉鎖するまで在籍し、合計8枚のシングルをリリースしました。
1969年、今度はフェイムと契約したものの、リリースしたのはシングル2枚のみ。しかし、うち1枚”Double Lovin’”は1970年9月にR&Bチャートの44位を記録するヒットとなっています。続いてサウンズ・オヴ・メンフィスおよびXLレーベルからシングルをリリースしていますが、これらはヒットとはならず、"Double Lovin'"はスペンサーにとって唯一チャート入りした曲として歴史に刻まれたのでした。
1973年にはスペンサーは住みなれた故郷メンフィスを離れマイアミに移住しました。マイアミでは、バプテスト教会でクワイヤーを率いて活動をしていたようですが、ソウル・シーンからは姿を消してしまいました。しかしその後1977年に日本のヴィヴィドサウンドよりゴールドワックスのシングル音源が「Soul City U.S.A.」と題したLPでリリースされ、スペンサーに対する再評価が高まっていったのでした。
スペンサーは1960年代にゴールドワックス・レーベルから名作シングルの数々をリリース。そのディープで迫力のある歌いっぷりで、多くのファンを魅了しました。2017年4月にはパーシーと共に来日も果たし、ビルボードライブ東京で公演を行なっています。
スペンサー・ウィギンズは1942年1月8日、メンフィス生まれ。母親は地元のバプテスト教会のクワイヤーで歌う歌手で、スペンサーも同じ道を進むようになりました。高校在学時に彼はパーシーや姉のマクシン・ウィギンズとニュー・ライヴァル・ゴスペル・シンガーズを結成し活動。そして高校を卒業したのちの1961年にはメンフィスのクラブ・シーンでソウルを歌うようになりました。
ソウル歌手として活動するようになって数年が経った頃、スペンサーのパフォーマンスを目にして声をかけた人がいました。彼の名前はクイントン・クランチ。1964年にゴールドワックス・レコードを設立したレコード・プロデューサーです。彼はスペンサーの才能を認め、ゴールドワックスに迎え入れたのでした。
1965年、ゴールドワックス傘下のバンドスタンドUSAから"Lover's Crime”でシングル・デビュー。飛び切りソウルフルなブルースで圧巻の歌声を聴かせています。その後1969年にゴールドワックスが閉鎖するまで在籍し、合計8枚のシングルをリリースしました。
1969年、今度はフェイムと契約したものの、リリースしたのはシングル2枚のみ。しかし、うち1枚”Double Lovin’”は1970年9月にR&Bチャートの44位を記録するヒットとなっています。続いてサウンズ・オヴ・メンフィスおよびXLレーベルからシングルをリリースしていますが、これらはヒットとはならず、"Double Lovin'"はスペンサーにとって唯一チャート入りした曲として歴史に刻まれたのでした。
1973年にはスペンサーは住みなれた故郷メンフィスを離れマイアミに移住しました。マイアミでは、バプテスト教会でクワイヤーを率いて活動をしていたようですが、ソウル・シーンからは姿を消してしまいました。しかしその後1977年に日本のヴィヴィドサウンドよりゴールドワックスのシングル音源が「Soul City U.S.A.」と題したLPでリリースされ、スペンサーに対する再評価が高まっていったのでした。
2003年にはゴスペルのアルバム「Key To The Kingdom」をリリースし健在ぶりをアピール。そして2009年と2011年にはイタリアのポレッタ・ソウル・フェスティバルに出演し久々にソウル・ショーを行ないました。その様子は動画で公開され、長い歳月を経てなお彼がソウル・シンガーとしてバリバリ現役であることを知らしめたのです。そんな流れの中、英ケント・レーベルからは、未発表曲も加えた形でゴールドワックス、フェイム、XLの音源がコンピレーションでリリースされました。
そして2017年、遂にスペンサーは初来日を果たします。目の前に登場した彼はポレッタの映像と比べるとだい老け込んだ印象はありましたが、歌い出すとその説得力たるや他の追随を許さない味を感じさせました。
スペンサー&パーシー・ウィギンズ初来日公演レポート
(ビルボードライブ東京, April 18, 2017)
http://bluesginza.web.fc2.com/black.ap.teacup.com/sumori/1734.html
残念ながら、これが唯一の来日公演となってしまいましたが、日本のソウル・ファンにとってはまさに長年の待望の来日でした。
弟パーシーとはわずか1歳の歳の差ですが、軽い足取りで若々しかったパーシーと比べ、スペンサーは対照的に歩くのも苦しそうでした。もしかすると、6年前なので、まだ75歳でしたが、もうあの頃から健康問題を抱えていたのかもしれません。
せっかくソウル・シーンにカムバックしたのだから、カムバック作を出してほしかったなと言う思いもありますが、一度だけでもその姿を目撃できたのは貴重な体験でした。
残念ながら、これが唯一の来日公演となってしまいましたが、日本のソウル・ファンにとってはまさに長年の待望の来日でした。
弟パーシーとはわずか1歳の歳の差ですが、軽い足取りで若々しかったパーシーと比べ、スペンサーは対照的に歩くのも苦しそうでした。もしかすると、6年前なので、まだ75歳でしたが、もうあの頃から健康問題を抱えていたのかもしれません。
せっかくソウル・シーンにカムバックしたのだから、カムバック作を出してほしかったなと言う思いもありますが、一度だけでもその姿を目撃できたのは貴重な体験でした。
2023-02-16 Thu
Huey performing with the Clowns at Tipitina’s, 1979.
Photograph by Michael P. Smith, © The Historic New Orleans Collection,
2007.0103.1.801, Negative 5A
Photograph by Michael P. Smith, © The Historic New Orleans Collection,
2007.0103.1.801, Negative 5A
ヒューイ・”ピアノ”・スミスが2月13日夜、バトンルージュの自宅で就寝中に亡くなったそうです。
昨日、起きてスマホを見たら、ヒューイの長女アケリンさんからそのことを知らせるメッセージが入っていました。ヒューイ伝の著者ジョン・ワートさんと僕宛に「昨晩お父さんが亡くなりました。私たちと人生を共にしてくれてありがとう」と。
呆然としました。僕は、ヒューイ伝の日本語版を彼の存命なうちに出したいと動き、それはなんとか昨年11月に実現することができましたが、まさかこんなにすぐのお別れになるとは!
ヒューイは高齢(89歳)ではありましたが病気だったわけではなく、突然の訃報でした。アケリンさんもニューオーリンズ在住で離れて暮らしているため、死に目に会うことはできなかったそうです。穏やかな最期だったとのことでそれはせめてもの救いだと思いますが、涙があふれてきます。彼が元気なうちに会いに行けないか模索もしておりましたが、もう叶いません。
ニューオーリンズR&Bをつくった男、間違いなく確固たる個性を持った偉大な人でした。
ヒューイは、ニューオーリンズR&Bはもとより、20世紀のポピュラー音楽を形作ったキーマンのひとりだと思いますが、その割にはあまりにも知られていません。正当な評価がなされているとは思えないのです。僕がこの本を出したいと考えたのも彼のことをもっと知ってほしいと思ってのことでした。
僕自身、この本を読んで初めて知ることが多かったのです。ヒューイの死に便乗して商売をするようで気が引けますが、ヒューイ伝を是非多くの人に読んでもらいたいと思っています。図書館で借りてもいいです。現時点で全国20か所の図書館に入っています。
ヒューイは1934年1月26日、ニューオーリンズに生まれ、10代の頃から音楽活動を始めました。1953年にサヴォイ・レコードからシングル” You Made Me Cry”でデビュー。これは大きなヒットとはなりませんでしたが、1956年にエイス・レコードに移り、1957年の”Rocking Pneumonia And The Boogie Woogie Flu”を始め、のちのスタンダートとなる曲を連発しました。底抜けに楽しいヒューイ・スミス・アンド・ザ・クラウンズのサウンドは、アラン・トゥーサンやドクター・ジョンを始めとするミュージシャンたちに大きな影響を与え、ニューオーリンズ・サウンドの土台となりました。
1960年代はエイスからインペリアル、インスタントと移籍して活動を続けましたが、ヒューイは彼の母親が信仰していたエホバの証人への信仰を強めていき、それに伴い1970年代に入ると活動のペースは落ちていきました。それでも、1978年に新作アルバムのレコーディング(1981年に英チャーリーより『Rockin' & Jivin'』としてリリース)、1978年、1979年、1981年とニューオーリンズのティピティーナスで公演。ジャズフェスにも2回出演するなど活動は続きました。
1981年にバトンルージュに移住。新天地でも活動を模索したもののうまくいかず、その後は完全引退状態となりました。1988年から2000年までの間、ヒューイはロイヤルティ回収を請け負う業者から訴訟を起こされ、敗訴という結末を迎えています。
裁判が終結した2000年、ロックンロール・ファウンデーションによってロックンロール・パイオニア賞を授与されました。ヒューイは、ニューヨークで開催された授賞式に赴き、久々のステージに立っています。しかし、これが彼の生涯最後のステージとなってしまいました。2002年にツアーの企画が持ち上がったものの実現はせず、ニューオーリンズの恒例のピアノ・ナイトへの出演も一度は決まりながら、彼が出演することはありませんでした。
近年もアケリンさんはちょくちょくヒューイのもとを訪れていたのですが、昨年末、日本語版のヒューイ伝と別冊のデータブックを二人で見ながら大いに盛り上がったと教えてくれました。二人とも日本語が読めないのに、本をめくりつつ楽しい時間を過ごしたそうです。彼女のメールには、データブックを眺めるヒューイの写真が添えられていました。
この本を出すにあたり、僕は著者のワートさんやアケリンさん、米国の出版社のLSUプレスの担当者とはやり取りをしていましたが、ヒューイとは連絡の術がなく、彼がどう思っているのか確認できずにおりました。本のあとがきにも書いたのですが、彼には余計なお世話なのかもしれないと思ったこともありました。
しかし、アケリンさんからの報告を受けてこの本を出したことが報われた気がしました。喜んでくれているんだ、と。
ヒューイの生誕90周年となる来年、ニューオーリンズでヒューイ展を企画しようとの話も挙がっていたと聞いています。本人は亡くなってしまいましたが、これはぜひ実現してほしいものです。アケリンさんは、自らを世界一のお父さんのファンだと言ってはばからない人で、ヒューイのレコードや記事などを色々と集めているそうです。彼女のそんなコレクションも展示が実現すれば見ることができるのでしょう。
ヒューイ、素晴らしい音楽をありがとうございました。僕はこれからも彼の素晴らしさを微力ながら伝えていきたいと考えています。
昨日、起きてスマホを見たら、ヒューイの長女アケリンさんからそのことを知らせるメッセージが入っていました。ヒューイ伝の著者ジョン・ワートさんと僕宛に「昨晩お父さんが亡くなりました。私たちと人生を共にしてくれてありがとう」と。
呆然としました。僕は、ヒューイ伝の日本語版を彼の存命なうちに出したいと動き、それはなんとか昨年11月に実現することができましたが、まさかこんなにすぐのお別れになるとは!
ヒューイは高齢(89歳)ではありましたが病気だったわけではなく、突然の訃報でした。アケリンさんもニューオーリンズ在住で離れて暮らしているため、死に目に会うことはできなかったそうです。穏やかな最期だったとのことでそれはせめてもの救いだと思いますが、涙があふれてきます。彼が元気なうちに会いに行けないか模索もしておりましたが、もう叶いません。
ニューオーリンズR&Bをつくった男、間違いなく確固たる個性を持った偉大な人でした。
ヒューイは、ニューオーリンズR&Bはもとより、20世紀のポピュラー音楽を形作ったキーマンのひとりだと思いますが、その割にはあまりにも知られていません。正当な評価がなされているとは思えないのです。僕がこの本を出したいと考えたのも彼のことをもっと知ってほしいと思ってのことでした。
僕自身、この本を読んで初めて知ることが多かったのです。ヒューイの死に便乗して商売をするようで気が引けますが、ヒューイ伝を是非多くの人に読んでもらいたいと思っています。図書館で借りてもいいです。現時点で全国20か所の図書館に入っています。
ヒューイは1934年1月26日、ニューオーリンズに生まれ、10代の頃から音楽活動を始めました。1953年にサヴォイ・レコードからシングル” You Made Me Cry”でデビュー。これは大きなヒットとはなりませんでしたが、1956年にエイス・レコードに移り、1957年の”Rocking Pneumonia And The Boogie Woogie Flu”を始め、のちのスタンダートとなる曲を連発しました。底抜けに楽しいヒューイ・スミス・アンド・ザ・クラウンズのサウンドは、アラン・トゥーサンやドクター・ジョンを始めとするミュージシャンたちに大きな影響を与え、ニューオーリンズ・サウンドの土台となりました。
1960年代はエイスからインペリアル、インスタントと移籍して活動を続けましたが、ヒューイは彼の母親が信仰していたエホバの証人への信仰を強めていき、それに伴い1970年代に入ると活動のペースは落ちていきました。それでも、1978年に新作アルバムのレコーディング(1981年に英チャーリーより『Rockin' & Jivin'』としてリリース)、1978年、1979年、1981年とニューオーリンズのティピティーナスで公演。ジャズフェスにも2回出演するなど活動は続きました。
1981年にバトンルージュに移住。新天地でも活動を模索したもののうまくいかず、その後は完全引退状態となりました。1988年から2000年までの間、ヒューイはロイヤルティ回収を請け負う業者から訴訟を起こされ、敗訴という結末を迎えています。
裁判が終結した2000年、ロックンロール・ファウンデーションによってロックンロール・パイオニア賞を授与されました。ヒューイは、ニューヨークで開催された授賞式に赴き、久々のステージに立っています。しかし、これが彼の生涯最後のステージとなってしまいました。2002年にツアーの企画が持ち上がったものの実現はせず、ニューオーリンズの恒例のピアノ・ナイトへの出演も一度は決まりながら、彼が出演することはありませんでした。
近年もアケリンさんはちょくちょくヒューイのもとを訪れていたのですが、昨年末、日本語版のヒューイ伝と別冊のデータブックを二人で見ながら大いに盛り上がったと教えてくれました。二人とも日本語が読めないのに、本をめくりつつ楽しい時間を過ごしたそうです。彼女のメールには、データブックを眺めるヒューイの写真が添えられていました。
この本を出すにあたり、僕は著者のワートさんやアケリンさん、米国の出版社のLSUプレスの担当者とはやり取りをしていましたが、ヒューイとは連絡の術がなく、彼がどう思っているのか確認できずにおりました。本のあとがきにも書いたのですが、彼には余計なお世話なのかもしれないと思ったこともありました。
しかし、アケリンさんからの報告を受けてこの本を出したことが報われた気がしました。喜んでくれているんだ、と。
ヒューイの生誕90周年となる来年、ニューオーリンズでヒューイ展を企画しようとの話も挙がっていたと聞いています。本人は亡くなってしまいましたが、これはぜひ実現してほしいものです。アケリンさんは、自らを世界一のお父さんのファンだと言ってはばからない人で、ヒューイのレコードや記事などを色々と集めているそうです。彼女のそんなコレクションも展示が実現すれば見ることができるのでしょう。
ヒューイ、素晴らしい音楽をありがとうございました。僕はこれからも彼の素晴らしさを微力ながら伝えていきたいと考えています。
2023-02-07 Tue
2月7日はアール・キングのお誕生日です。1934年生まれなので存命ならば89歳。ヒューイ・スミスと同い年です。
去年もこの日に書き込みをしているので、同じことは繰り返しませんが、ドクター・ジョンとの共演で彼の代表曲を。
[昨年の書き込み]
Happy Birthday Mr. Earl King (2/8/2022)
2023-02-06 Mon
ヒューイ・”ピアノ”・スミス伝発売から間もなく3か月。手売りも一段落つきましたが、今月は2つのイベントに本を持ってお邪魔する予定です。
2月18日(土)開場13:30 開演14:00 下北沢・3313アナログ天国
Mardi Gras in Shimo-Kita (Talk & DJ Show)
ホストDJ:文屋章&佐藤英輔、ゲスト:陶守正寛
チャージ:2000円(1ドリンク付き)
マルディグラを祝してニューオーリンズ音楽をかけまくるイベントにゲストで呼ばれました。昼のイベントです。トークの部分に参加
して本のことやヒューイのことを話す予定です。

2月18日(土)開場13:30 開演14:00 下北沢・3313アナログ天国
Mardi Gras in Shimo-Kita (Talk & DJ Show)
ホストDJ:文屋章&佐藤英輔、ゲスト:陶守正寛
チャージ:2000円(1ドリンク付き)
マルディグラを祝してニューオーリンズ音楽をかけまくるイベントにゲストで呼ばれました。昼のイベントです。トークの部分に参加
して本のことやヒューイのことを話す予定です。

2月23日(木・祝)18:00-23:00 下北沢・メンフィス兄弟
米国南部音楽の夕べ vol. 6
ヒューイ’ピアノ’スミス伝出版記念スペシャル
Special Guest DJ:ピーター・バラカン
DJ’s:陶守正寛、Alive(芽瑠璃堂)、二見潤、akiraメンフィス兄弟。
チャージ:2000円(+ドリンク)
ピーターさんがメインですが、僕もDJとして参加します。ヒューイのカバー曲などを中心にかけようと思っています。
米国南部音楽の夕べ vol. 6
ヒューイ’ピアノ’スミス伝出版記念スペシャル
Special Guest DJ:ピーター・バラカン
DJ’s:陶守正寛、Alive(芽瑠璃堂)、二見潤、akiraメンフィス兄弟。
チャージ:2000円(+ドリンク)
ピーターさんがメインですが、僕もDJとして参加します。ヒューイのカバー曲などを中心にかけようと思っています。
参加するイベントはこれだけですが、他出かける際は本も持っていこうと思うので見かけたら声をかけてくださいね。別冊のヒューイ・データブックは思いのほか好評で用意したものが全部売れてしまいました。少しだけ情報の追加、修正を行なったものを増刷しましたので、それが近々出来上がる予定です。
本は3,700円(税込=本当は3,740円ですが端数は頂きません)、データブックは500円(税込)です。セットでお買い上げいただくと4,000円(税込)になります。
本は3,700円(税込=本当は3,740円ですが端数は頂きません)、データブックは500円(税込)です。セットでお買い上げいただくと4,000円(税込)になります。
本を買っていただいたみなさま、本当にありがとうございます。
感想など聞かせてもらえると嬉しいです。
今後ともヒューイ・スミスをよろしくお願いします。
2023-01-31 Tue
鮎川誠さんが亡くなったそうです。
僕はブルース銀座を立ち上げた1996年、鮎川さんとちょっとしたやり取りがありました。
ちょうど同じ頃シーナ&ロケッツのウェブサイトが立ち上がってました。そのサイトはなんと、鮎川さんが自ら見よう見まねで作っていたのです。当時鮎川さんはインターネットに夢中になっていたようで、面白いウェブサイトを見つけてはシナロケのサイトにリンクしていました。そんな過程でブルース銀座も見つけてもらいました。僕も当時見よう見まねでhtmlを書き、画像をスキャンして、ブルース銀座を作っていたのです。音楽のこと、ウェブサイトのこと、メールを送るとすぐ返事が来ました。従来連絡するすべもなかったアーティストや著名人との繋がりが多く生まれたWWW元年でした。
1997年、僕がニューオーリンズにジャズフェスを見に行った際の話ですが、直前に連絡をもらい、鮎川さんも行くので向こうで会おうとのこと。現地に着くと指定されたフレンチクォーターのギャラリーへ。お店のスタッフに聞いてみましたが「彼はまだ来てないよ」と言われ、いつ来るかもわからないので、その場を後に。
翌日から僕らは昼も夜もライヴ漬けの毎日に突入。数日後だったか、ハウス・オヴ・ブルースでタジ・マハールのライヴを見てホテルに戻ったとき、時間は深夜を回っていたでしょうか。フロントの爺さんが「マコトから電話があったよ」と。
折り返し電話をしてみたら、鮎川さんが今からホテルに来ないかと。
鮎川夫妻が宿泊していたのはフレンチクォーターの中心のオムニ・ホテルだったかな。行ってみると、中庭に鮎川さんがシーナとザリガニをだーんっと広げてくつろいでいるではありませんか。「今日昼間通りででザリガニを売ってるのを見つけて丸ごと買ってきたけ、たくさんあるから食べてよ」と鮎川さん。やることが大胆だなぁと思いつつ、ご厚意に甘えました。深夜ということもあるのかも知れませんが、そこそこ広くおしゃれな中庭は鮎川夫妻と僕と妻、そしてザリガニの占有状態でした(笑)。
ザリガニにしゃぶりつきながらしばし歓談。何を話したか全く覚えていませんが、他愛もない音楽話をしていたんではないかと思います。鮎川夫妻は偉ぶったところが全くなく、僕らにも旧友のように接してくれました。特にロックンロールやブルースの話をすると、鮎川さんは少年のように嬉しそうに目を輝かせていたのが印象的でした。鮎川さんにとってはローリングストーンズもウィルコ・ジョンソンもマディ・ウォーターズもロバート・ジョンソンも、オーティス・レディングもみんなロックンロールなんだろうなと思いました。ジャンルなんて関係ない。自分の好きなものはとことん好き。そんな感じだと思いました。
鮎川さんのパソコンとインターネットへの思いをつづった「DOS/Vブルース」という本がこの頃出版されました。興味を持ったことに一途になる鮎川さん。面白いなあと思いましたし、大いに共感もしました。僕はMacユーザでしたが。。。
帰国後もJIROKICHIにライヴを見に行き、休憩時間に話したのを覚えています。お店の前の路上でうんこ座りをしながら普通に(笑)。
2016年のクリス・ファーロウの来日のときだったか、見に来られていた鮎川さんに挨拶しましたが、お会いしたのはそれが最後となってしまいました。昨年5月29日、日比谷野音のTOKYO BLUES CARNIVALでは三宅伸治のバンドにゲスト出演。変わらずお元気そうでしたが、発表によると癌が見つかったのはまさに5月だったといいますから、恐らく余命宣告を受けた直後だったんでしょう。そんなことは微塵も感じさせないいつもの鮎川さんでした。
27年前に出会ったシナロケのウェブサイト、今も基本的にあの当時のままの手作り感満載です。業者に任せればいいのに、でもそこもまた鮎川さんらしいというか、ロックンロールなんだなーと思います。
鮎川さん、安らかにとは言いません。向こうの世界でも爆音かき鳴らしてください!
https://www.facebook.com/photo/?fbid=712607730243549&set=a.575088230662167僕はブルース銀座を立ち上げた1996年、鮎川さんとちょっとしたやり取りがありました。
ちょうど同じ頃シーナ&ロケッツのウェブサイトが立ち上がってました。そのサイトはなんと、鮎川さんが自ら見よう見まねで作っていたのです。当時鮎川さんはインターネットに夢中になっていたようで、面白いウェブサイトを見つけてはシナロケのサイトにリンクしていました。そんな過程でブルース銀座も見つけてもらいました。僕も当時見よう見まねでhtmlを書き、画像をスキャンして、ブルース銀座を作っていたのです。音楽のこと、ウェブサイトのこと、メールを送るとすぐ返事が来ました。従来連絡するすべもなかったアーティストや著名人との繋がりが多く生まれたWWW元年でした。
1997年、僕がニューオーリンズにジャズフェスを見に行った際の話ですが、直前に連絡をもらい、鮎川さんも行くので向こうで会おうとのこと。現地に着くと指定されたフレンチクォーターのギャラリーへ。お店のスタッフに聞いてみましたが「彼はまだ来てないよ」と言われ、いつ来るかもわからないので、その場を後に。
翌日から僕らは昼も夜もライヴ漬けの毎日に突入。数日後だったか、ハウス・オヴ・ブルースでタジ・マハールのライヴを見てホテルに戻ったとき、時間は深夜を回っていたでしょうか。フロントの爺さんが「マコトから電話があったよ」と。
折り返し電話をしてみたら、鮎川さんが今からホテルに来ないかと。
鮎川夫妻が宿泊していたのはフレンチクォーターの中心のオムニ・ホテルだったかな。行ってみると、中庭に鮎川さんがシーナとザリガニをだーんっと広げてくつろいでいるではありませんか。「今日昼間通りででザリガニを売ってるのを見つけて丸ごと買ってきたけ、たくさんあるから食べてよ」と鮎川さん。やることが大胆だなぁと思いつつ、ご厚意に甘えました。深夜ということもあるのかも知れませんが、そこそこ広くおしゃれな中庭は鮎川夫妻と僕と妻、そしてザリガニの占有状態でした(笑)。
ザリガニにしゃぶりつきながらしばし歓談。何を話したか全く覚えていませんが、他愛もない音楽話をしていたんではないかと思います。鮎川夫妻は偉ぶったところが全くなく、僕らにも旧友のように接してくれました。特にロックンロールやブルースの話をすると、鮎川さんは少年のように嬉しそうに目を輝かせていたのが印象的でした。鮎川さんにとってはローリングストーンズもウィルコ・ジョンソンもマディ・ウォーターズもロバート・ジョンソンも、オーティス・レディングもみんなロックンロールなんだろうなと思いました。ジャンルなんて関係ない。自分の好きなものはとことん好き。そんな感じだと思いました。
鮎川さんのパソコンとインターネットへの思いをつづった「DOS/Vブルース」という本がこの頃出版されました。興味を持ったことに一途になる鮎川さん。面白いなあと思いましたし、大いに共感もしました。僕はMacユーザでしたが。。。
帰国後もJIROKICHIにライヴを見に行き、休憩時間に話したのを覚えています。お店の前の路上でうんこ座りをしながら普通に(笑)。
2016年のクリス・ファーロウの来日のときだったか、見に来られていた鮎川さんに挨拶しましたが、お会いしたのはそれが最後となってしまいました。昨年5月29日、日比谷野音のTOKYO BLUES CARNIVALでは三宅伸治のバンドにゲスト出演。変わらずお元気そうでしたが、発表によると癌が見つかったのはまさに5月だったといいますから、恐らく余命宣告を受けた直後だったんでしょう。そんなことは微塵も感じさせないいつもの鮎川さんでした。
27年前に出会ったシナロケのウェブサイト、今も基本的にあの当時のままの手作り感満載です。業者に任せればいいのに、でもそこもまた鮎川さんらしいというか、ロックンロールなんだなーと思います。
鮎川さん、安らかにとは言いません。向こうの世界でも爆音かき鳴らしてください!