2023-02-16 Thu
Huey performing with the Clowns at Tipitina’s, 1979.
Photograph by Michael P. Smith, © The Historic New Orleans Collection,
2007.0103.1.801, Negative 5A
Photograph by Michael P. Smith, © The Historic New Orleans Collection,
2007.0103.1.801, Negative 5A
ヒューイ・”ピアノ”・スミスが2月13日夜、バトンルージュの自宅で就寝中に亡くなったそうです。
昨日、起きてスマホを見たら、ヒューイの長女アケリンさんからそのことを知らせるメッセージが入っていました。ヒューイ伝の著者ジョン・ワートさんと僕宛に「昨晩お父さんが亡くなりました。私たちと人生を共にしてくれてありがとう」と。
呆然としました。僕は、ヒューイ伝の日本語版を彼の存命なうちに出したいと動き、それはなんとか昨年11月に実現することができましたが、まさかこんなにすぐのお別れになるとは!
ヒューイは高齢(89歳)ではありましたが病気だったわけではなく、突然の訃報でした。アケリンさんもニューオーリンズ在住で離れて暮らしているため、死に目に会うことはできなかったそうです。穏やかな最期だったとのことでそれはせめてもの救いだと思いますが、涙があふれてきます。彼が元気なうちに会いに行けないか模索もしておりましたが、もう叶いません。
ニューオーリンズR&Bをつくった男、間違いなく確固たる個性を持った偉大な人でした。
ヒューイは、ニューオーリンズR&Bはもとより、20世紀のポピュラー音楽を形作ったキーマンのひとりだと思いますが、その割にはあまりにも知られていません。正当な評価がなされているとは思えないのです。僕がこの本を出したいと考えたのも彼のことをもっと知ってほしいと思ってのことでした。
僕自身、この本を読んで初めて知ることが多かったのです。ヒューイの死に便乗して商売をするようで気が引けますが、ヒューイ伝を是非多くの人に読んでもらいたいと思っています。図書館で借りてもいいです。現時点で全国20か所の図書館に入っています。
ヒューイは1934年1月26日、ニューオーリンズに生まれ、10代の頃から音楽活動を始めました。1953年にサヴォイ・レコードからシングル” You Made Me Cry”でデビュー。これは大きなヒットとはなりませんでしたが、1956年にエイス・レコードに移り、1957年の”Rocking Pneumonia And The Boogie Woogie Flu”を始め、のちのスタンダートとなる曲を連発しました。底抜けに楽しいヒューイ・スミス・アンド・ザ・クラウンズのサウンドは、アラン・トゥーサンやドクター・ジョンを始めとするミュージシャンたちに大きな影響を与え、ニューオーリンズ・サウンドの土台となりました。
1960年代はエイスからインペリアル、インスタントと移籍して活動を続けましたが、ヒューイは彼の母親が信仰していたエホバの証人への信仰を強めていき、それに伴い1970年代に入ると活動のペースは落ちていきました。それでも、1978年に新作アルバムのレコーディング(1981年に英チャーリーより『Rockin' & Jivin'』としてリリース)、1978年、1979年、1981年とニューオーリンズのティピティーナスで公演。ジャズフェスにも2回出演するなど活動は続きました。
1981年にバトンルージュに移住。新天地でも活動を模索したもののうまくいかず、その後は完全引退状態となりました。1988年から2000年までの間、ヒューイはロイヤルティ回収を請け負う業者から訴訟を起こされ、敗訴という結末を迎えています。
裁判が終結した2000年、ロックンロール・ファウンデーションによってロックンロール・パイオニア賞を授与されました。ヒューイは、ニューヨークで開催された授賞式に赴き、久々のステージに立っています。しかし、これが彼の生涯最後のステージとなってしまいました。2002年にツアーの企画が持ち上がったものの実現はせず、ニューオーリンズの恒例のピアノ・ナイトへの出演も一度は決まりながら、彼が出演することはありませんでした。
近年もアケリンさんはちょくちょくヒューイのもとを訪れていたのですが、昨年末、日本語版のヒューイ伝と別冊のデータブックを二人で見ながら大いに盛り上がったと教えてくれました。二人とも日本語が読めないのに、本をめくりつつ楽しい時間を過ごしたそうです。彼女のメールには、データブックを眺めるヒューイの写真が添えられていました。
この本を出すにあたり、僕は著者のワートさんやアケリンさん、米国の出版社のLSUプレスの担当者とはやり取りをしていましたが、ヒューイとは連絡の術がなく、彼がどう思っているのか確認できずにおりました。本のあとがきにも書いたのですが、彼には余計なお世話なのかもしれないと思ったこともありました。
しかし、アケリンさんからの報告を受けてこの本を出したことが報われた気がしました。喜んでくれているんだ、と。
ヒューイの生誕90周年となる来年、ニューオーリンズでヒューイ展を企画しようとの話も挙がっていたと聞いています。本人は亡くなってしまいましたが、これはぜひ実現してほしいものです。アケリンさんは、自らを世界一のお父さんのファンだと言ってはばからない人で、ヒューイのレコードや記事などを色々と集めているそうです。彼女のそんなコレクションも展示が実現すれば見ることができるのでしょう。
ヒューイ、素晴らしい音楽をありがとうございました。僕はこれからも彼の素晴らしさを微力ながら伝えていきたいと考えています。
昨日、起きてスマホを見たら、ヒューイの長女アケリンさんからそのことを知らせるメッセージが入っていました。ヒューイ伝の著者ジョン・ワートさんと僕宛に「昨晩お父さんが亡くなりました。私たちと人生を共にしてくれてありがとう」と。
呆然としました。僕は、ヒューイ伝の日本語版を彼の存命なうちに出したいと動き、それはなんとか昨年11月に実現することができましたが、まさかこんなにすぐのお別れになるとは!
ヒューイは高齢(89歳)ではありましたが病気だったわけではなく、突然の訃報でした。アケリンさんもニューオーリンズ在住で離れて暮らしているため、死に目に会うことはできなかったそうです。穏やかな最期だったとのことでそれはせめてもの救いだと思いますが、涙があふれてきます。彼が元気なうちに会いに行けないか模索もしておりましたが、もう叶いません。
ニューオーリンズR&Bをつくった男、間違いなく確固たる個性を持った偉大な人でした。
ヒューイは、ニューオーリンズR&Bはもとより、20世紀のポピュラー音楽を形作ったキーマンのひとりだと思いますが、その割にはあまりにも知られていません。正当な評価がなされているとは思えないのです。僕がこの本を出したいと考えたのも彼のことをもっと知ってほしいと思ってのことでした。
僕自身、この本を読んで初めて知ることが多かったのです。ヒューイの死に便乗して商売をするようで気が引けますが、ヒューイ伝を是非多くの人に読んでもらいたいと思っています。図書館で借りてもいいです。現時点で全国20か所の図書館に入っています。
ヒューイは1934年1月26日、ニューオーリンズに生まれ、10代の頃から音楽活動を始めました。1953年にサヴォイ・レコードからシングル” You Made Me Cry”でデビュー。これは大きなヒットとはなりませんでしたが、1956年にエイス・レコードに移り、1957年の”Rocking Pneumonia And The Boogie Woogie Flu”を始め、のちのスタンダートとなる曲を連発しました。底抜けに楽しいヒューイ・スミス・アンド・ザ・クラウンズのサウンドは、アラン・トゥーサンやドクター・ジョンを始めとするミュージシャンたちに大きな影響を与え、ニューオーリンズ・サウンドの土台となりました。
1960年代はエイスからインペリアル、インスタントと移籍して活動を続けましたが、ヒューイは彼の母親が信仰していたエホバの証人への信仰を強めていき、それに伴い1970年代に入ると活動のペースは落ちていきました。それでも、1978年に新作アルバムのレコーディング(1981年に英チャーリーより『Rockin' & Jivin'』としてリリース)、1978年、1979年、1981年とニューオーリンズのティピティーナスで公演。ジャズフェスにも2回出演するなど活動は続きました。
1981年にバトンルージュに移住。新天地でも活動を模索したもののうまくいかず、その後は完全引退状態となりました。1988年から2000年までの間、ヒューイはロイヤルティ回収を請け負う業者から訴訟を起こされ、敗訴という結末を迎えています。
裁判が終結した2000年、ロックンロール・ファウンデーションによってロックンロール・パイオニア賞を授与されました。ヒューイは、ニューヨークで開催された授賞式に赴き、久々のステージに立っています。しかし、これが彼の生涯最後のステージとなってしまいました。2002年にツアーの企画が持ち上がったものの実現はせず、ニューオーリンズの恒例のピアノ・ナイトへの出演も一度は決まりながら、彼が出演することはありませんでした。
近年もアケリンさんはちょくちょくヒューイのもとを訪れていたのですが、昨年末、日本語版のヒューイ伝と別冊のデータブックを二人で見ながら大いに盛り上がったと教えてくれました。二人とも日本語が読めないのに、本をめくりつつ楽しい時間を過ごしたそうです。彼女のメールには、データブックを眺めるヒューイの写真が添えられていました。
この本を出すにあたり、僕は著者のワートさんやアケリンさん、米国の出版社のLSUプレスの担当者とはやり取りをしていましたが、ヒューイとは連絡の術がなく、彼がどう思っているのか確認できずにおりました。本のあとがきにも書いたのですが、彼には余計なお世話なのかもしれないと思ったこともありました。
しかし、アケリンさんからの報告を受けてこの本を出したことが報われた気がしました。喜んでくれているんだ、と。
ヒューイの生誕90周年となる来年、ニューオーリンズでヒューイ展を企画しようとの話も挙がっていたと聞いています。本人は亡くなってしまいましたが、これはぜひ実現してほしいものです。アケリンさんは、自らを世界一のお父さんのファンだと言ってはばからない人で、ヒューイのレコードや記事などを色々と集めているそうです。彼女のそんなコレクションも展示が実現すれば見ることができるのでしょう。
ヒューイ、素晴らしい音楽をありがとうございました。僕はこれからも彼の素晴らしさを微力ながら伝えていきたいと考えています。
スポンサーサイト